閉じる

ホーム > ≪オンライン広報≫広報かのや > 連載企画 > 鹿屋街道 > 【第8路】輝北にそびえる西原城跡

更新日:2025年11月19日

ここから本文です。

【第8路】輝北にそびえる西原城跡

サムネイル

輝北総合支所前にある国道504号線と県道72号線の交差点の北側に城跡への道があり、これに従い坂道を登っていくと「西原城跡(城山公園)」に辿り着きます。
肝付氏の一族である図師家が二十代・434年間も居城した地であり、高山の本城(肝付氏の居城)と連絡をとり、島津勢や外敵の襲来を監視し、万一の時は狼煙をあげて高山の本城へ知らせる肝付北辺の監視城としての役割を果たしていました。図師家は、養和元年(一一八一年)から元和元年(一六一五年)まで百引を支配しましたが、後に島津氏に帰服しました。築城者・年代は不明であり、図師氏の先祖か肝付氏の武将が築城したものと考えられています。

城跡1

城跡2


明治10年に勃発した西南戦争の際は、明治政府軍(官軍)がここに陣地を敷き、西郷隆盛を総大将とする西郷軍(薩摩軍)と激闘を交えました。本営を高須に置き高隈に向かった官軍と、これを阻止しようとした鹿屋・高隈・百引の諸郷士からなる薩摩軍が高隈で遭遇。戦闘が開始されましたが、圧倒的な戦力を誇る官軍を前に薩摩軍は壊滅し、官軍が百引まで進軍しました。そこで薩摩軍は、西原城に陣地を敷いていた官軍を襲撃。武器・弾薬ともに不足し、刀と小銃だけの戦いでしたが、四方八方からの奇襲に、土地勘のない官軍は狼狽、大敗を喫し、敗走しました。
この百引の戦いでは、薩摩軍が負傷者10人だったのに対し、官軍は95人の死傷者を出しました。このように官軍が完膚なきまでに大敗したのは、ほとんど例がなく、連戦連勝でおごりが生じ、油断していたことが原因とも言われています。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?