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更新日:2022年7月25日
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太平洋戦争時において重要な役割を果たした鹿屋第1海軍基地。太平洋戦争における鹿屋第1海軍基地の役割を紹介します。
昭和16年2月、山本五十六連合艦隊司令長官から依頼された大西瀧治郎参謀長が志布志寄港中の航空母艦「加賀」の第一航空艦隊の源田實少佐と会談(鹿屋会談)し、真珠湾攻撃の作戦が出来上がった。
1945年(昭和20年)2月10日には、特攻を主体とした部隊、第五航空艦隊が編成され、陸海空軍の全航空部隊を統合するため、司令部を鹿屋に設置。同時に極秘裏に巨大な地下壕建設が進められ3月には司令部が移転していった。この司令部からは、宇垣纏司令長官らによって特攻機発信計画が実施された。当時女学校の生徒100人が学徒通信隊として3交替で作戦電話室の任務に当たった。
人間爆弾と言われた、特殊滑空機「桜花」の唯一の出撃基地。
一式陸上攻撃機の胴体に吊り下げられて敵艦に近づいたとき切り離された。桜花で55名が特攻して戦死した。
出撃基地 | 特攻戦没者数 |
鹿屋 | 908人 |
知覧 | 439人 |
国分 | 427人 |
赤江 | 385人 |
串良 | 363人 |
ポツダム宣言を受諾し9月2日ミズーリ号上で調印式のあった後、進駐軍が高須町金浜海岸に横浜や横須賀、館山についで本土上陸をした。
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