ホーム > ≪オンライン広報≫広報かのや > 特集 > 繰り返さないために、紡ぐ言葉。
更新日:2026年8月19日
ここから本文です。

7月9日、鹿屋市で14年振りに「全国ハンセン病療養所所在市町連絡協議会総会」が開催されました。日本国内の国立ハンセン病療養所が所在する自治体の首長らが集まり、各療養所が抱える課題解決に向けて話し合われました。本市には、昨年創立90周年を迎えた「国立療養所星塚敬愛園」があり、今年は入所者にとって人生の大きな転機となった「らい予防法」の廃止から30年の節目にあたります。
かつて行われた国の隔離政策により、ハンセン病に感染した人が過酷な偏見や差別、家族との離別を強いられたハンセン病問題。その舞台となった13の療養所の1つが鹿屋市にあり、歴史を知る当事者と共に生きる市民として、私たちはこの問題を風化させてはなりません。
本特集では、星塚敬愛園の歩みや入所者の経験談を通じて、ハンセン病問題や今後起こりうる差別にどう向き合うべきかを考えます。誰もが尊厳を持って生きられる社会を築くために、私たちに問われることとは…。


▲7月9日に開催された、国立ハンセン病
療養所がある自治体でつくる「全国ハンセン病
療養所所在市町連絡協議会総会」の様子。

▲7月10日には、星塚敬愛園で慰霊献花
や施設見学、園や入所者との懇談会が
実施されました。
ハンセン病は「らい菌」による慢性感染症です。感染力は極めて弱く、現代では早期発見できれば後遺症を残すことなく完治することができます。しかし、有効な治療法がなかった時代には「不治の病」とされ、感染者は激しい偏見や差別に晒さらされてきました。
日本でも明治40年に「癩予防ニ関スル件」という法律ができて以降、昭和初期に「無らい県運動」が全国で広がるなど、ハンセン病と診断された患者を療養所に強制的に入所させる隔離政策が国によって進められました。
昭和31年の「ローマ宣言」により、国際的に隔離の不当性が提唱され、世界各国ではハンセン病の隔離政策が解かれていきました。
その一方で、日本では隔離政策が継続され、平成8年に「らい予防法」が廃止されるまで、約90年間も人権侵害が続きました。
平成13年、ハンセン病の隔離政策を進めた国の責任を問う「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」で元患者らが全面勝訴。令和元年には「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟」でハンセン病家族への賠償も認められました。ハンセン病の元患者やその家族にまで及んだ偏見・差別を国が認めたことは、私たちがハンセン病問題を見つめ直す契機となりました。
こうした歴史を二度と繰り返さないため、市では講演会やパネル展などを通じて、ハンセン病問題に関する啓発活動に取り組んでいます。しかし、時の経過とともに、ハンセン病問題を過去の出来事として捉える人も少なくありません。多様な差別や偏見が今なお存在する現代において、ハンセン病の歴史を紐解き、人権について改めて考えることが大切ではないでしょうか。
古代から近世までのハンセン病は、時代によって「仏罰による病」、「穢けがれた病」、「家筋・血筋が原因の病」と認識されてきました。
日本で初めて「癩」の言葉が登場したのは、720年の「日本書紀」。ここでは一般的な病気としての記述にとどまっていましたが、12世紀の「今昔物語集」では、比叡山の僧侶が仏罰を受けて「白癩」となり、穢れた者として扱われたと記述されています。
明治以降になると、各地の神社・仏閣には放浪する患者が多くいたとされており、こうした患者は文明国にふさわしくないとされ、隔離政策が進められていきました。
昭和6年に「癩予防法」が制定されたことで、ハンセン病と診断された患者の強制隔離が進められました。各都道府県がすべての患者を療養所に隔離し、一掃する目的で行われた「無らい県運動」により、患者はすぐに警察に届けられ、犯罪者のごとく強制隔離されるようになりました。
ハンセン病は当時、感染力が高く、遺伝すると考えられていたため、患者の住居は真っ白になるまで消毒作業が行われ、周りの住民に強い恐怖を与えました。
また、患者の家族も同様に差別を受け、結婚の拒絶や強制的な離婚、村八分にされるなどの差別があり、患者と家族は共に「家族であること」を隠さなければなりませんでした。

収容される人々(昭和10 年)

不自由舎出張治療(昭和26 年)

園内の学校に通う子ども

横尾岳中腹の木材切り出し作業(昭和19年)

隊列を組む少年団奉仕作業(昭和14年)


私は13歳の時に出身地である沖縄を出て、星塚敬愛園にやってきました。船を乗り継ぎ、垂水港からはタクシーに乗るつもりでしたが、運転手に敬愛園行きを伝えると断られてしまい、約32㎞の道のりを父とともに歩きました。
入所後には、「八重子」の名前が与えられ、これからはそう名乗るようにと言われました。自分の本名を名乗ることができず、両親からもらった「正子」という名前を否応なしに奪われたのです。初めの頃は訳も分からず、自分の名前を間違えないように、その新しい慣れない名前をひたすらに頭の中で繰り返していました。
園での生活は決して楽なものではありませんでした。入所者は豚や乳牛の飼育や農耕作業、火葬業務など、生活の様々なことを自分たちで行っていました。また、入所者の看護・介護も自分たちで行っていたので、満足な治療を受けられませんでした。
こうした日々の中でも、私はいつか社会復帰を果たすつもりで、病棟治療部員として働き、お金を貯めていつか家に帰るんだと思っていました。

18歳の時、私は園内で結婚しました。当時は結婚すると、12畳半一間で仕切りのない部屋に4組の夫婦で一緒に住まなければならず、仕切り代わりになればと夫がちゃぶ台を作ってくれました。

子どもが好きで、教師になりたいと思っていた私は、結婚して子どもを産み育てることを夢見ていました。
結婚した翌日、初めて夫の下着を洗濯したとき、血や消毒液がついているのを見つけて驚きました。夫に理由を聞くと、前日に結婚の手続きをした際、「ここで結婚するためには、断種手術をしなければならない。」と言われ、手術台に上がったというのです。「もし妻が妊娠したら強制堕胎をさせられる。そんな辛い思いはさせたくないと思った。」とも話してくれました。
その頃には、ハンセン病の特効薬であるプロミンも開発されており、私たち夫婦は健康そのものでした。それなのに、私たちは一生子どもを持つことができない。それは、とても辛く、悔しいものでした。

昭和に入ると、国は全国各地にハンセン病療養所の設置を進めました。当初、県内の候補地は第一候補に指宿郡頴娃川尻、第二候補に肝属郡大崎村大崎海岸、第三候補に肝属郡鹿屋町、第四候補に日置郡谷山町上野がありました。しかし、いずれも市街地に近すぎたことや、飲料水の確保の問題、地元の大きな反発などがあり難航。
これを受けて誘致活動を行う永田良吉衆議院議員の地元・大姶良村(星塚原)が誘致先となりました。
こうして、昭和10年10月28日に星塚敬愛園は設立され、全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち9番目の開設となりました。当時の敷地面積は約17万1,600㎡に及び、60棟の建物と定数300床で始動。開園して5日目には患者の入所が始まり、同年12月には沖縄・奄美の患者200人以上が一挙に収容されました。
その後も入所者は瞬く間に増加し、開園してわずか40日で定員を超えることとなり、昭和18年には最大で1,347人が入所するまでになりました。

永田良吉 衆議院議員
「政治は愛なり」敬愛園設立に燃えた男
星塚敬愛園は、地元大姶良村出身の衆議院議員で、後に鹿屋市長も務めた永田良吉氏によって誘致されました。
当時、沖縄・奄美を中心とした南九州は、ハンセン病患者が全国的に多い地域でした。いち早く療養所を誘致しなければならないと、若手議員だった永田氏は、地元の激しい誘致反対活動や家族を巻き込んだ迫害等があったにも関わらず、熱心な誘致運動を展開し、同園の設立を実現させました。
永田氏の「政治は愛なり」という言葉は、この時に生まれたものとされています。また、星塚敬愛園の「敬愛」は初代園長・林文雄氏が西
郷隆盛の「敬天愛人」からヒントを得たとされています。
星塚敬愛園には、忘れてはならない歴史を伝える史跡が数多く残されています。
かつて「患者自らが療養所を運営する」という状況に置かれた同園では、軽症の入所者が重症者の看護及び介護にあたり、橋の建設や火葬業務なども入所者自身の手で行われていました。
当時の偏見や差別の歴史を伝える史跡は、今も大切に残されており、園内の「社会交流会館」では、当時の様子が分かる貴重な資料や書物などが展示されています。歴史を紡ぐまちの市民として、正しい理解と人権への意識を深めるために、ぜひ一度見学にお越しください。


令和8年7月末現在、星塚敬愛園には44名が入所されており、平均年齢は90歳を超えています。当時を知る方々が少なくなるなか、同じ過ちを繰り返さないためにも「記憶の継承」が急務となっています。
一方で入所者の高齢化に伴い、直接お話を伺う機会が失われつつあります。だからこそ、私たちは入所者の生の声から歴史の真実と現状を学び、人権の尊さについて一人ひとりが考え続け、未来へ語り継いでいく責任があると考えています。
娘の興味がきっかけ家族で学ぶ人権

小学6年生の娘が学校でハンセン病問題を知ったことをきっかけに、県主催の親子療養所訪問で星塚敬愛園を訪れました。
娘は、「中はとても広くて、お店や郵便局もあった。便利だと思ったけれど、それは一歩も外に出さないためだったと知って悲しかった。」と話していました。息子は、「法律は変えられても人の心は簡単には変わらないため、正しい知識と歩み寄りが大切だ。」と深く受け止めていました。私も、偏見や差別のない社会にするには、正しい知識を持ち、様々なことに興味を持って相手に接することが重要だと痛感しました。これからは一人ひとりの個性を大切にし、互いに歩み寄る姿勢を心掛けていきたいです。

ハンセン病問題を未来へ紡ぐため、伝聞だけでなく自ら行動し、様々な活動に取り組む人々がいます。どのような想いで活動しているのか、お聞きしました。
ハンセン病をテーマとした演劇を作った一番のきっかけは、25年ほど前に星塚敬愛園の語り部の方からお話を伺ったことでした。「いつかは取り組みたいテーマ」と思い続けていましたが、実際に書くには大きな覚悟が必要でした。描き方次第では観客に誤解を与える恐れがありました。当初は裁判の勝訴をクライマックスにすることも考えましたが、人間として「名前を奪われること」が差別の本質だと気づき、奪われた名前と「人間回復」への過程を描くストーリーへ方向転換しました。
執筆で最も意識したのは、問題の大きさをしっかりと受け止めつつも、単なる同情だけで終わるドラマには絶対にしないことでした。

演じる生徒たちが当事者の気持ちに寄り添うため、演劇部員は実際に星塚敬愛園を訪問し、資料館の見学や入所者との交流を重ねてきました。彼らには自ら学ぶだけでなく、同世代の若い人たちへも、自分たちの言葉と演技で伝えていってほしいと願います。
この演劇を通して、「人間は同じ過ちを犯す可能性がある」ことを改めて認識してほしいです。当時、人権を無視した国の施策に多くの人が疑問を持たず従った背景には、病への無知や他人事にする態度がありました。近年でも、コロナ禍の感染者への理不尽な差別などが挙げられますが、ハンセン病問題のような事象は過去の出来事ではなく、現代でも起こりえます。この演劇が、その本質に気づくきっかけになれば幸いです。

今回、「そのひとの名前」の主役をして、より当事者の気持ちに近づけたと思います。名前を奪われ、一人の人間として当たり前に生きる権利を奪われる。当事者と全く同じ気持ちになることはできませんが、その気持ちを理解し、セリフや仕草、表情などを通して全身全霊で伝えていければと思って演じました。
演じれば演じる程、この問題の大きさを強く感じるとともに、差別が「遠いものではない」と考えるようになりました。次の世代である自分たちが、このような問題を知り、また身近なことであることを演劇を通して伝えていきたいと思います。

私たちは、元々「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の勝訴に向けて活動をする団体でした。平成13年の勝訴後、一度は解散の話も出ましたが、裁判が終わっても社会の根深い偏見・差別は解消されず、入所者の高齢化や療養所の将来、さらには家族や遺族の救済など、真の「全面解決」にはまだ多くの課題が残されていました。
そこで平成19年3月にNPО法人を立ち上げ、現地ガイドや映画上映の定期的なイベント等の啓発活動、入所者への訪問支援等を行っています。
今後も入所者の生の声を知る歴史を紡ぐ一員として、多くの世代に語りかけ、ハンセン病問題の全面解決に向けて取り組みます。



入所者の方々は、これまで様々な偏見や差別を受け、想像を絶する苦難を経験されてきました。現在は、ハンセン病の後遺症に加え、高齢化に伴う疾患を抱えながら日々の生活を送っています。
このような中、私たち星塚敬愛園の職員は入所者の方々に寄り添い「敬愛園で過ごしてよかった」、「あなたに会えて良かった」と思ってもらえるよう、全人的な視点で医療や看護、介護、福祉の各分野で一丸となって業務に励んでいます。
また、社会交流会館や歴史的建造物の見学などを通して、啓発活動にも取り組んでいます。鹿児島県や宮崎県が主催する療養所訪問事業をはじめ、年間を通して多くの学生や一般の方々が当園を訪れています。こうした活動を通して、ハンセン病問題の歴史をさらに多くの方に伝えたいと考えています。
入所者の方々の願いは、同じ過ちを繰り返さないということです。しかしながら、コロナ禍においても患者さんやそのご家族に対しての偏見や誹謗中傷が大きな問題となりました。まだまだ偏見・差別は私たちの身近にも存在しています。
これからも多くの方に来園いただき、偏見や差別のない社会の実現に向けて一緒に取り組んでいきたいと考えています。皆様のご来園を心よりお待ちしております。

「旅行に行くぞ」という両親の言葉を信じて、長崎から鹿児島へ向かったのが昭和35年、私が12歳の時でした。船の客室は空いているのに、
なぜか私たちは機関室の横に立たされていました。今思えば、差別はそこから始まっていたんだと思います。
最初の夜、ふさぎ込んでいた私に、あるおばあさんが「リンゴを食べなさい」と手を伸ばしてくれました。
でも、その手には指がなく、お礼を言おうと見上げた顔の形相に驚き、私は「うわぁ」と大声を上げて布団にくるまってしまいました。
あの時の申し訳ない、取り返しのつかないことをしたという気持ちは、歳になった今でもはっきりと胸に残り、またその時の様子は眼にしっかりと焼き付いています。翌日、帰ろうとした私は大人たちに羽交い絞めにされ、「ここで治療をするんだ」と言われました。
抵抗できず、その時初めて自分が病気で、ここに隔離されたのだと悟りました。
私もかつてハンセン病の患者に対して、差別をしてしまった一人です。差別を完全になくすことは、困難なことかもしれません。それは無知であり、他人事だからゆえに起こることだからです。ハンセン病問題は過去のことだと考える人は多いですが、現在でも見知らぬ人に差別的な言葉を投げかけられたことがあります。これは、かつての私と同じように「知らない」ことが原因だと思います。
だからこそ、全ての世代が問題意識を持ち、学び続けることが大切ではないでしょうか。自治会長として、また語り部として、ハンセン病問題を周知することにこれからも尽力していきます。
すべての世代が過去の歴史を知り、「他人事ではなく自分事」として考えてくれれば、同じ過ちは繰り返されないと私は信じています。




お問い合わせ
鹿屋市保健相談センター
電話:0994-41-2110

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください